一般的に飲食店のお手洗いは、目に触れにくい場所にあると思う。店内入り口付近や、お店の奥など、テーブルから見えにくい位置に設置してあるイメージだ。しかし僕とDさんが利用した居酒屋のお手洗いは、そうではない。お店の真ん中付近にある。真ん中にあるのは別に構わない。が、お手洗い出入り口に暖簾などの目隠しが一切されていないので、コの字カウンター席の座る位置によっては、お手洗いを出入りするお客さんがバッチリ見えてしまうのだ。そういうわけで、お手洗い出入り口の洗面台に立つ立たない人、手を洗う人手を洗わない人も、完全にわかってしまう。まあここは酒場なので、通常ならばいちいちそんなことをチェックしないし、気に留めることはないが……そう、通常ならば……。
おい、D……お前……。
……今トイレから出て、手を洗ったか?
僕は自分の目を疑った。お手洗いから出てきたDさんは、洗面台に立つこともなく、颯爽と僕の方に向かって歩いてきたからだ。洗面台に立たなかったということは……手を洗っていないということになる。
え……?見間違い……?手は……?
いったいどういうことなんだろう。ちなみにお手洗いの個室内には、手洗い器などの手を洗えそうな設備はない。例えばお洒落なお手洗いであれば、色々と完備されているので、個室内で全て完結できるが、ここは蒲田の大衆酒場のお手洗い。個室内は最低限の用が足せる設備があるだけだ。
だからDさんが手を洗うためには、個室を出た先の洗面台で洗うしか方法がないのだ。
……だがDさんは……洗面台に目をくれることもなく完全スルーして、僕に向かって歩いてきた。
「すみません、お待たせしました。美味しかったー。また来たいです。次のおすすめのお店はどんな感じですか?」
「……」
「ホピ沢さん?」
「……ああ、次のお店ですね。次のお店はここから少し先なんですけど……」
「ジャンルは?」
「今やきとんだったので、次は立ち飲みイタリアンを考えてたんですけど……どうですか?」
「立ち飲みイタリアン?いいですね!」
Dさんと次のお店の話をする一方で、僕の頭の中は"手を洗わなかったDさん"のことでいっぱいだった。自分に無頓着な人なら手を洗わないかもしれない。が、Dさんのように、自分を美しく見せることに努力を惜しまない人が、手を洗わないなんて、本当に信じられなかった。もしかしてDさんは、潔癖症で公共の洗面台が使えないのだろうか。常に除菌シートや消毒液を持ち歩いていて、それで手を拭いているのだろうか。でもなあ……だからといって洗面台を完全スルーするだろうか……。
女性のことはわからないが、男性の中には、用を足した後、手を洗わずにトイレを退出する人は結構いる。実際公共のトイレで何度も目にしたことがあるので、そう珍しいことではない。そういう手を洗わない人と遭遇する度にげんなりしてきたが、所詮は他人。自分に害がないのならいいかと思ってきたが……。
Dさんは他人であれど、一応、今は一緒に飲んでいる間柄。
「混んでいるかもしれないので、もしかしたら入れないかもしれないんですけど……」
「ダメだったら別のお店でも全然大丈夫ですよ」
Dさんは手を洗っていないかもしれない。
その疑惑は、次のお店でも、その次のお店でも、膨れ上がっていくことになる。