別にDさんから、「ごちそうさま」が聞きたかったわけじゃない。しかし普通は、食事の代金を全額支払ってくれた相手には、お礼を言うべきではないだろうか。例え本心は、「たかがこんな金額で、奢った気になってんじゃんねーよ」と思っていたとしても。社会に出て20年以上も経つ、いい大人なのだから。
しかしお手洗いから戻ってきたDさんは、会計について言及することも、お財布を出すことも、代金を支払った僕にお礼を言うこともなかった。「美味しかったですね」と言って、ショーウィンドウに映る自分の姿をチラチラと見つめ、身だしなみを整えていた。僕にはその態度が信じられなさすぎて、もう絶句というか、幻滅というか、言葉にならなかった。
45歳のDさんは、年齢や職場での立場の関係で、当然後輩にごちそうする機会もあるはずだ。もしその時後輩が「ごちそうさま」も言わず、平然とスマホを弄っていたら?イラッとしないのか?それとも何も思わないのか?だからそういう態度なのか?
そういえば確かマッチングアプリで出会った、タケウチさんとサリーさんも、僕がご馳走した時、彼女たちは「男が奢って当然でしょ」という態度で平然としていた。本当にそういうタイプの人間は、どういう神経をしているのだろう。ちなみに同じくマッチングアプリで出会ったあすぴょんさんだけは割り勘派で、奢る奢られることにはきっちりしていたし、むしろ頑なに奢られたくないと言い張っていた。僕が先にまとめて支払う場面では、しっかりお礼を言ってくれたことも覚えている。
あーあ、なんかもう気持ちが下がるなあ……。
そんな心境だった。そしてもう帰ろうと思った。だから僕はDさんに「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」と、解散ムードを匂わせたのだが……。
「え、もう帰るんですか?もう少しお話ししません?お茶しませんか?この辺にケーキが美味しい、ゆっくりできそうなお店あるんで」
マジかよ!そしてまだ食う気かよ!
「すみません、この後予定があるので……」
「えー、そうなんだ、残念。じゃあライン交換しましょう」
「え、ええ……」
当然この後予定もなく、ただ家に帰るだけ。だからお茶をする時間はあったのだが……どうも気が進まなく、正直早く家に帰って1人になりたかった。適当な嘘をついて帰ろうとする僕に、Dさんは不満気に唇を尖らせる。失礼なことを言うが、その唇を尖らせる仕草は、おそらくいい大人はしないし、自分が可愛いと思っていないとできないタイプのポーズなのだ。確かにDさんは、美人だ。だがいくらDさんが綺麗で素敵だとしても、中年女性のそのぷんぷんポーズはちょっと痛々しくて、見ていられなくて、心がざわっとしてしまった。
一応形式的にラインを教え合った後、僕とDさんは駅に向かって歩き始めた。Dさんはできる大人の女性のアイテム、ピンヒールをカツカツ鳴らして歩く。高いヒールを履いている女性の中には、歩きにくいからか、腰や膝が曲がって不恰好な歩き方をする方もいるが、Dさんはとても姿勢が良く、ピンヒールがよく似合っていた。本当になんでこんなに美しい女性が、僕とカップリング成立したのだろう。不思議だった。167センチの僕と並ぶとDさんの方が背が高くなるので、僕は恥ずかしい気持ちを抱えて駅までなんとか堪えた。
「帰りはJRですか?蒲田ですもんね」
「そうです」
「ふーん、じゃあ私はあっちで買い物して帰るので!ここで失礼します!今度は蒲田で飲みましょう!」
そう言ってDさんは、颯爽と百貨店方面に消えていった。
