"埼玉県への移住話"を打ち切るために、僕は慌てて席を立った。レジ前でメニューを眺めて何を注文するか考えあぐねていたが、実際は何も食べたくはなかった。元々お腹が空いていない胃袋には、既にホットドッグが収まっている。人よりちょっとだけ食べるのが得意だという自負はあるが、今はどうしても無理にドーナツを捩じ込む気にはなれなかった。とはいえあすぴょんさんに「おかわりをします」と言ってしまった手前、何も買わずに戻るわけにはいかない。僕は、ポンポンしたリングのドーナツとコーヒーを注文し、重い足取りで席に戻った。
そして僕と入れ違いで、おかわり注文をしにレジに向かったあすぴょんさん。 数分後、パイ系やチョコ系のドーナツを四個お皿に乗せて戻ってきた。これであすぴょんさんは、トータル7個のドーナツを購入したことになる。それにしてもよく食べるなと思う。僕は、男女問わず美味しそうにたくさん食べる方は好きだし、見ていて嬉しくなる。しかしどうしても埼玉県の一件から妙に身構えてしまい、あすぴょんさんの食べっぷりを素直な気持ちで直視できなくなっていた。
「あのホピ沢さん、ちょっと質問してもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
ハムスターのように頬をぷくっと膨らませながら、ちびちびもぐもぐはむはむとドーナツを食べているあすぴょんさんが、唐突に口を開いた。僕はなんてことない口振りで促してみたが、内心は緊張していた。
「もしホピ沢さんの結婚相手が、ホピ沢さんとの結婚を機に仕事を辞めたいと言ったら……ホピ沢さんはどうお考えでしょうか」
「それは……専業主婦、ということでしょうか」
「そうですね。ホピ沢さんが外で働き、奥さんが家のことは全てする。そういう考えは、ありでしょうか」
再び埼玉県の話を突きつけられるかと思っていたので、ちょっとほっとした。
「……状況によるかなと思います。この歳で望めるとは思っていませんが、例えば子供がいたら、教育やその他色々なことにお金がかかるので、僕だけの収入では不安があります。その場合もし可能なら、週に一度でも短時間でもいいので、働けるなら働いてくれると嬉しいです。でも二人で暮らすのでしたら、専業主婦でも構わないと思っています。すごく贅沢はできないですけど、それでもよければ、僕のお給料で細々と二人で暮らしていけると思います」
「なるほど」
「マイナスなことは考えたくないですけど、例えば両親の介護やもし子供に障害があった場合は、家に誰かがいる必要があります。そうなると、専業主婦もしくは専業主夫になることも考えねばなりません。ですから状況によっては、専業主婦になる考えもありという感じです」
「そうでなんですね。うちの母も祖母も専業主婦なんです。ホピ沢さんのお母様は?」
「昔は父の事業に少し携わっていましたが、今は専業主婦です」
だから、なんなんだろう。もしかして親子3代専業主婦になるのがベストだということだろうか。あすぴょんさんは、専業主婦になりたいのだろうか。
「……あすぴょんさんは専業主婦になりたいんですか?」
こういう質問をしてくるということは、そういうことなのかもしれない。聞きにくかったが、あすぴょんさんから切り出したのだ。僕は思い切って聞いてみた。あすぴょんさんはうーんと首を傾げながら、氷が溶けきったアイスカフェラテをストローでくるくると回す。そして口を開いた。
「そういうわけではないですけど、男性よりも女性には、予期せぬ出来事で色々と働けなくなる状況や可能性があると思うので。ホピ沢さんのお考えが頑なではなく、臨機応変というか、柔軟で安心しました」
安心……?
「このご時世、専業主婦は肩身が狭いじゃないですか。でも色々な事情で、ならざるを得ない方も多いと思うんです。だからホピ沢さんが、専業主婦反対じゃなくてよかったなあって」
さらにこの話題が続くと思われたが、この話はこれで終わった。
「あ、そろそろ飲茶を食べようかなと思います」